ブログ

温故知新のススメその1

Today:3views / Total:2,210views Written by:

皆さんこんにちは。M2の高原知明です。今回は個人的に好きな歴史上の戦いを紹介させていただこうと思います。この手の文章は今まで書いたことがないので、お見苦しい点があればご了承ください。

 

季節は冬となり、皆様におきましては卒業論文や修士論文などと戦っている方も多いかと思われます。そのような身近なものを含め、歴史上では古今東西様々な戦いが発生してきました。その背景や結果は多岐に渡りますが、共通する「失敗した要因」「成功した要因」として取り上げることが可能なファクターはいくつかあるかと思います。今回紹介する戦いからこれらを読み取り、自身が人生で「本当に」戦わなければならない自体が発生した際に活用していただけますと幸いです。また、今回はただただ紹介するだけなので、教訓は読者が現在置かれている環境を鑑みて都合よく当てはめてみてください。

 

1.ガリポリの戦い(1)

ガリポリの写真(2)

背景

1914年に開戦した第一次世界大戦(WWI)ですが、開戦後しばらくして欧州戦線では鉄道網、塹壕および機関銃を活用した強固な防御陣地を連合国側および枢軸国側が互いに形成されました(いわゆる塹壕戦の発生。詳細はWikipedia Race to the Sea参照)。例えば1916年にフランス北部で発生したソンムの戦いでは、英仏連合軍側が戦線を11km押し上げるのには約70万人の死傷者が発生しました。この例からも分かるように十分準備された防御陣地を突破するには膨大な人的資源や物資が必要となるため、互いに攻撃を控えて戦線は膠着しました。この膠着状態をなんとかしようと開発されたのが戦車や毒ガスですが、それはまた別のお話。

話は変わって、同じ連合軍の中でも帝政ロシアに移ります。帝政ロシアは海が年中凍らない低緯度の港を求め、当時南下政策をとっていました。冬に使用できなくなる港しか持ってないとその期間シーレーンが一切活用できなくなり、貿易や軍事作戦も困難になりますから当然ですね。この政策の一環として東アジア方面にある満州などに進出した結果、1904年に日露戦争が開戦しました。結果はご存知の通り日本の勝利に終わり、帝政ロシアは東アジア方面の南下は断念しました。

日露戦争といえば28cm砲(5)

 

そこで次に注目したのが黒海です。一見するとロシア領は黒海と接しており、「黒海から地中海に出ればいいんだから、ロシアは不凍港に困っているなんて嘘では?」という感じですよね。ところがどっこい、そうは政治がおろさない。グーグルマップを見てもわかるように、黒海から外海に出るにはオスマン帝国領であるボスポラス海峡およびダーダネルス海峡という二つの海峡を通過する必要があります。ロシアがオスマン帝国と仲がよければ何も問題はないのですが、WWIにて前者は連合国側、後者は同盟国側です。人間はキリスト様ではないので、喧嘩している相手に自分の縄張りを素通りさせるはずはありません。連合国側がオスマン帝国の軍事力を侮っていたこともあり、ロシアは軍事侵攻を開始しますが思いの外苦戦してしまいました。そこで、同盟国である英仏に対しオスマン帝国侵攻の援助を求めます。

オスマン帝国が存在していた頃にはGoogleマップはなかったので、表記がトルコとなっております。史実厨はお帰りください。

ここで再び欧州に話は戻ります。西部戦線は完全に膠着しており出口は全く見えない。長期化する戦争に国内は厭戦気分に包まれ、国民からの突き上げも厳しくなっている。

じゃあ、西側ダメなら東から行けばいいのでは?

仮に連合国側がオスマン帝国を打ち倒し、ロシアへ援助物資を送り東部戦線を支援すれば、欧州同盟国に対し二方面作戦が可能になります。同盟国側からすると戦力を東部戦線と西部戦線に二分しなければならず、西部戦線の連合国からすると単純に正面の敵戦力が半分になります。さらに、オスマン帝国を屈服させれば英国が中東に有する油田およびスエズ運河への脅威を排除するとともに地中海の制海権も同時に確保可能であることから、資源・通商面においても多大な利点があります。このように、オスマン帝国の打倒は英仏側の欧州戦線の膠着状態の解決・戦争継続のための戦略資源確保および帝政ロシア側の不凍港の入手という両者の利益にかなっています。そこに、同盟国であるロシアのオスマン帝国侵攻を手助けするという名目でボスポラス海峡・ダーダネルス海峡奪取をするため、ガリポリの戦いが始まりました。

今回の目的(一部端折りました)

 

なぜこの戦いをチョイスしたのか?

1.オスマン帝国が同時の列強の一角である英仏の連合軍に対し勝利したため。

当時英・仏国はかの有名なセシル・ローズの風刺絵に代表されるように世界中に植民地を有しており、紛れもない列強の一角でした。ガリポリの戦いはこの二国に加え、ニュージーランドおよびカナダとの連合軍を4国で組まれて実施されました。この連合軍に侵攻された際にアジアの一国が勝つ姿を誰が想像できるでしょうか? 少なくとも字面を見る限り私には困難と感じました。「オスマン帝国が欧米列強に勝利した」という事実は、この戦いを始めて知った時に衝撃的だったのは記憶に新しいです。

2. 史上初の大規模陸海軍共同作戦だから

この戦いは戦史史上初めての陸軍・海軍が協調して行われた作戦であり、後世へ多大な戦訓を残しました。先ほどの塹壕戦と同じように、十分に準備された防御陣地を前に上陸を成功するためには相応の用意が必要です。後に述べるように主に上層部の失態が原因で本上陸作戦は失敗に終わったのですが、本作戦を分析することで得られる失敗した原因や改良点は後のWWIIにおけるノルマンディー上陸作戦や、太平洋戦争における連合軍の島嶼への上陸戦においても活かされました。異なる組織が協調するのって難しいですよね〜。

3. 歴史の転換点となる人物の誕生の一つのきっかけだから

この作戦でオスマン帝国側として活躍したムスタファ・ケマルという人物がいます。彼はこの戦闘にて名声をあげ、敗戦後にトルコ革命を経てトルコ共和国大統領となりました。この戦いが欧米諸国とも外交で対等に渡り合い、トルコの近代化へ大きな役割を果たした人物を生み出した一因となったのを見ると、歴史は連綿のように連なっていることを改めて実感させられます。

ムスタファ・ケマル(10)

経過

経過はあまり興味がないかと思われるので簡単にします。当初連合軍はトルコ側の戦力を見くびり、海軍のみでダーダネルス海峡を奪取できると考えられました(1915年2月)。しかし、オスマン帝国側はあらかじめ幾重にも張り巡らした機雷網(海版のの地雷みたいなもんです)や沿岸砲台および沿岸発射型魚雷からなる防御陣地を構えており、連合軍は戦艦6隻を失う大損害を被りました(1915年3月)。この敗戦より海軍のみでダーダネルス海峡を突破する試みは挫折したことから、連合軍は陸軍を半島への上陸させ、陸上および海上の両面から侵攻を開始しました(1915年4月)。しかし、いざ陸軍が上陸してオスマン側の要塞からの猛烈な反撃により進軍は停滞。その後、西部戦線と同様に塹壕戦となり、連合軍側は正面攻撃を繰り返して膨大な死傷者を出すこととなりました。いたずらに損害を増やしながら肝心のダーダネルス海峡突破は困難を極めたことから、目的未遂のまま最終的には撤退することなりました。(1915年12月)

 

敗戦の要因

根拠の無い楽観論

(1) ガリポリの戦いにおいて、当初連合軍は艦砲射撃のみでオスマン帝国側の要塞を制圧しようと思いました。というのもWWI開戦直後、砲撃により要塞が簡単に陥落した数例あったため「今回も砲撃のみでなんとかなるだろう」という思い込みが連合国側にありました(ex. ドイツ軍によるベルギーのリエージュ要塞制圧)。しかし、「要塞は砲撃で制圧した」という結果は確かにあれども、そこに至った経緯を考えると今回も同様に上手くいくと予想するのは困難と考えられます。

困難と考えられる要因はいくつかありますが、わかりやすいものを一つ取り上げると要塞の砲撃に用いる砲の種類の差異があります。例えばリエージュ要塞の攻略に用いられたのは曲射砲であり、高角射撃により要塞の防護壁を超えて内部施設を砲撃可能です。要塞内部の砲台・食物庫・弾薬庫を破壊すれば敵側の継戦能力を喪失させ、陥落を早められることは予想に難く無いです。一方、今回用いられたのは艦砲(カノン砲みたいなもん)です。艦砲はそもそもの使用用途から曲射砲のように高角射撃する使用法が考慮されていないため、弾道は必然的に低くなります。その結果、例え要塞を砲撃しても砲弾は壁に当たるのみで、要塞内部を破壊することができません。壁を壊すだけで敵を降伏させられればこんなに楽なことはないですが、現実にはそんなことないので艦砲射撃のみで敵を屈服させるのは実質不可能です。このように到底実現性のない海軍のみのダーダネルス海峡奪取を試みた結果、何の成果もあげられないばかりか戦艦6隻を失うという大変な損失を被ることとなりました。それに至ったプロセスを考慮することなく「前は上手くいったから今回も上手くいくでしょう」で突入すると取り返しのつかない事態に陥ることがわかりましたね。この謎の楽観論は太平洋戦争における旧日本軍上層部でもよく見られましたが、結果はご存知の通りです。今の日本にもよく見られる光景かもですね(苦笑)。

 

(2)トルコ軍側の士気・練度を見誤っていたのも敗北の原因の一つであると考えられます。1912年に起こったバルカン戦争など直近の戦闘の様子から、オスマン帝国軍の練度は低く撃破は容易であるという思い込みも当時連合軍側にありました。確かにその当時はそれは正解だったかもしれないですが、1915年のガリポリの戦いにおいてそれは誤りでした。そもそもガリポリはオスマン帝国領であり、彼らからしたら今回の攻撃は祖国への侵略そのものです。他国へ侵攻する際と異なり、敗北時には住んだ町や家族が身勝手な侵略者に蹂躙されるとなっては、必然的に士気に大きな違いが見られるでしょう。また、同時オスマン帝国は同盟国であるドイツの軍事顧問団を迎えており、訓練を通してトルコ軍は近代戦のノウハウを身につけていました。負けたら後がない、練度十分の兵士に対し舐めてかかったらどうなるでしょうか? ガリポリの戦いの後、本作戦の分析を行ったダーダネルス委員会という組織があるのですが、報告書には次の言葉がありました。

バルカン戦争やメソポタミアでの最近の先頭における出来事に結果として、トルコ軍兵士は戦闘員としての能力が劣るとの見方が広まっていたが、上陸時とその後数ヶ月にわたるヘレスとアンザックでの先頭の間に、これが誤った見解であることが明らかになった

 

キリが悪いですが文章が長くなりそうなので今回はここで切らせていただきます。次回はガリポリの戦いの続きと個人的に好きな戦いを二つ取り上げられたらと思います。

それでは今回はこの辺で。

 

参考文献・引用画像

(1)(a)防衛省防衛研究所 平成26年度 戦争史研究国際フォーラム報告書 ガリポリ1915年 (b) Wikipedia ガリポリの戦い

(2)Wikipedia Gallipoli campaign

(3)Wikipedia 塹壕

(4)WiKipedia マーク I 戦車

(5)Wikipedia 二十八榴弾砲

(6)Wikipedia イギリス帝国

(7) Wikipedia セシルローズ

(8) Wikipeida ノルマンディー上陸作戦

(9) Wikipedia 硫黄島の戦い

(10) Wikipedia ムスタファケマル

 

The following two tabs change content below.

高原知明

M2。携帯にある迷惑メールの数ならだれにも負けないです。四十七都道府県制覇を目指してます。

最新記事 by 高原知明 (全て見る)

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

ページ上部へ戻る