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人工知能のはなし<後編>

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前回に引き続き、AIについてです。後編では、有機化学において今後AIはどのような存在になっていくのかを考察します。

前編の終わりに、有機化学界でも過去の人間の知見に一切頼らないAIが登場して合成経路を一新しうるか、と書きましたが、結論から言うと囲碁界とはまた違った形になると思います。すなわち、これまでに確立された数多の手法を考慮せずに合成経路を提案する、といったことは考えにくいと思います。

有機化学と囲碁を比較してみましょう。重要なのは、囲碁は「人間が定めた明確なルールがあり、目的もはっきりしている」ということです。すなわちルールさえ教えれば、コンピュータはそれに従って勝利という目的を目指して自己学習することができました。それでは有機化学における「ルール」と「目的」とは何でしょう。

有機化学の “ルール” をAIが扱える形に落とし込むのは容易ではないでしょう。例えば複雑化合物の合成において、「(一般的な実験環境で扱うことができる)試薬を混ぜて反応させ、(現実的な手法で)精製して新たな化合物を得る一連の作業を一工程とする」のように定義し、短工程合成を目指すとします。しかしそれ以上の情報が人間から何も与えられなかったとしたら、そもそもどんな試薬が入手可能で人間に扱えるのか、その化合物を単離するのにどれくらいの労力を要するのか、など現実の実験で重要な要素をどのように判断するのでしょうか。さらに言えば、その化学反応自体はどのようなルールに従うのかと言われると電子の振る舞いを記述することになります。化学反応における厳密な意味でのルールはシュレディンガー方程式ということになりそうですが、それも厳密に解くことはできず、人間が開発した近似的手法を用いて計算することになるでしょう。その上そもそも計算化学は決して特定の反応が進行しうるかを全自動で判断するツールではなく、人間が実験事実と有機化学の理論に基づいて適切な構造を与えることで、予想した機構が妥当かを検証しています。つまり簡単に言うと、人間が「ルール」として与えるべき情報があまりにも多すぎる上に人間自身もそのルールを完全には把握できておらず、とても現実を正確に表現できるとは思えないのです。

次に目的ですが、これも非常に悩ましいところです。本来であれば例えば「様々な天然物や医薬品などの複雑化合物を効率的にかつ網羅的に合成する」(言い換えると、合成標的を入力すれば適切な合成経路を提示してくれる)というような目的を掲げたいところですが、この目的は非常に曖昧です。つまり囲碁における目的は「勝利」であり、その勝敗には明確な定義が存在します。一方でこの目的は「効率的」「網羅的」の定義は一体何なのか、具体的にどんな化合物を合成したいのかなどあまりにも不確定要素が多く、何を学習の指標としていいのかわかりません(すなわち、善悪判断のしようがありません)。これでは適切な学習ができるとは思えません。より厳密にするために、ここではその目的を「ある特定の複雑化合物を、なるべく少ない工程数で、なるべく高い総収率で合成する」ということにしましょう。実際に合成研究でAIを使うことを想像してみると、まずは合成標的を入力するでしょうから、この目的は自然に思います。しかしこうすると合成標的ごとに別々のAIが必要ということになるかもしれません。さらに仮に合成経路を提案できたとしても、与えられたルールが不十分、不正確であるために、それを実際に再現できる可能性は限りなく低いでしょう。

結局のところ、囲碁と科学では目指すところが本質的に異なっているということかと思います。囲碁が(人間が処理できるかは別として)真理の探究を目指すとすれば、科学では(学問の真理を探究することももちろんありますが)どちらかというと実用性を重視してAIを活用する場面が多いでしょう。すなわち、人間にとって便利で都合が良いかという点が重要な指標となるわけです。囲碁AIの開発で得た知見は科学にも応用できるでしょうし、そうした研究が発展するのは素晴らしいことですが、囲碁でAIが人類を超えたからといっていつか科学もAIに支配されて科学者は不要になるというのは的外れではないかと思います。科学においてはかつての囲碁AIのように、人間が蓄積してきた知見を学習しその膨大のデータをもとにして新たな知見を得るという使い方が適しているように思えます。有機化学においてもこれまで開発されてきた数多の反応、精製法、分析法などが無駄になるということは決してなく、それらをもとにAIを活用して人間にとって有用な新たな知見を得て(その有用性の判断も有機化学者にしかできない仕事です)、実際に使ってみる、その繰り返しになるのではないでしょうか。ただしそれでもあえて人間が築き上げてきた知見に全く頼らないAIを開発するという研究があってもいいでしょうし、それはそれで非常に面白いような気がしています。

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D3。ボードゲームやプログラミングなど、頭を使うことが好き。

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コメント

    • みうら
    • 2021年 10 06日

    前編と合わせて、大変、興味深く読ませていただきました。
    DeepMindからAlphaFold2が出て、タンパク質立体構造をAIを用いて高い精度で予測できるという話が話題になりましたが、AIの有機化学プロセスへの応用について星さんの見解に変化はありましたでしょうか?
    第一線の研究室で研究されている星さんの現時点のお考えをお伺いしてみたいです。

      • 星貴之
      • 2021年 10 11日

      みうら様、コメントありがとうございます。
      専門分野ではないですが、それでもAlphaFoldの登場には衝撃を受けました。深層学習にも得意不得意がありますが、タンパク質の構造予測には適していたということなのでしょうか。
      今後有機化学においてもAIの得意とする部分から少しずつ置き換わっていくと思いますが、それでもやはり有機化学者の仕事がなくなるという未来は想像しにくい、という考えに変わりはないですね。

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